組合の歴史
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1885明治18年5月2日
「石川県金沢区魚鳥四十物商組合」を上近江町に設立。
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1896明治29年1月19日
水産物流通の販路調査に組合員2名を台湾へ派遣。
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1907明治40年4月18日
組合名称を「金沢市魚商組合」に改める。
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1924大正13年2月13日
現:金沢中央信用組合の前身である「有限責任金沢水産信用購買利用組合」を設立。
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1934昭和9年5月18日
組合創立50周年記念式典と祝賀会開く。
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1934昭和9年9月18日
市姫神社に野村組合長の顕彰碑建立、除幕式が行われる。
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1936昭和11年7月18日
昭和11年7月18日金沢魚商青年会発会式。
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1946昭和21年2月
青草辻、近江町市場自治協会発足、近江町市場の再建進む(戦後半年でヤミ市から脱却)。
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1952昭和27年8月18日
組合は協同事業として近江町に製氷冷凍工場完成、資金3,400万円。
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1954昭和29年2月21日
全国水産物小売団体連合会に加入。同京都大会に初参加。
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1954昭和29年4月1日
石川県水産物小売団体連合会設立。
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1954昭和29年5月18日
全水商連北信越ブロック協議会創立。
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1958昭和33年5月18日
組合創立70周年記念式典を市公会堂で挙行。
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1960昭和35年6月18日
全水連第7回全国大会を金沢で開催。
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1962昭和37年6月18日
秋、組合冷蔵庫10周年記念運動会 卯辰山にて開催。
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1966昭和41年3月19日
組合創立80周年記念式典(表彰式含む)挙行。この後、中央市場への移転問題を協議。
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1966昭和41年7月18日
金沢市中央卸売市場開場。
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1966昭和41年8月7日
組合会館ならび魚商会館 落成式。
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1967昭和42年8月27日
組合関係物故者法要を大谷派東別院で厳修。
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1975昭和50年5月3日
組合創立90周年事業として、京都東本願寺にて物故者法要厳修。
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1978昭和53年6月30日
金沢おさかな普及協会設立、同副会長に北川理事長選任。
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1978昭和53年9月3日
卯辰山にて組合大運動会(参加者700名)。
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1979昭和54年10月21日
組合本館建替えのため新築落成。
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1983昭和58年9月23日
新魚商会館建替完成。中央卸売市場関連棟と共に、新築開店。
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1985昭和60年5月12日
組合創立100周年記念式典を市文化ホールにて開催。
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1999平成11年7月10日
全水商連 第46回石川県大会を石川県地場産業振興センターで開催。和倉温泉 加賀屋にて懇親会。
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2005平成17年4月10日
組合創立120周年記念式典を日航ホテルにて開催。
Chairman
金沢の魚屋の為に尽力した、理事長をご紹介致します。
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就任期間 22年
1885年~1907年
野村 藤次郎(のむら とうじろう)
弘化3年1月15日、金沢に生まれる。長じて魚商業を営む家で、進取の気鋭に富み政治力のある指導者であった。40歳の時に金沢区魚鳥四十物組合設立。初代組合長へ。水産物流通の販路を海外に伸ばすことに強い関心を寄せ、日清貿易振興のため組合員2名を台湾に派遣した。また、明治31年~34年金沢市会議員となり中立派議員として活躍。家屋税反対運動を行い、同法案は廃案になる。金沢市伝染病予防委員委嘱。明治40年に金沢市魚商組合に改称、組合員を辞任し、病をえて明治43年11月15日死去(享年65歳)
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就任期間 31年
1907年~1938年
野村 喜一郎(のむら きいちろう)
明治1年9月9日に金沢に生まれる。野村家は旧藩主前田甲の魚菜御用達を業とする。石川県・金沢市の嘱託として上海に渡航し清国各地を視察した。(株)金沢魚会社設立、魚市(株)を設立し、日清戦争後は、清国上海を巡り(株)金沢魚問屋設立。石川県より日本海沿岸各港、浦港貿易の視察を命ぜられ、商業視察員としてロシアのウラジオストック8ヶ月駐在。日露戦争に従軍し満州へ行く。明治40年に金沢市魚商組合長に選任され、水産関連の業務向上に勤める。石川県知事の名を受け、3度朝鮮視察、金沢実業組合連合会設立、金沢市より嘱託され全国の魚市場調査、公設市場調査、金沢商業会議所議員に当選する。有限責任金沢水産信用購買利用組合を設立。金沢市信用組合設立。大正14年金沢市会議員(1級)に当選。
大正12年以降、近江町市場の卸問屋ではせりを原則とした取引から相対売りに変えてきた。そのため、魚の値段を言い値で買わなくてはならないことから魚市場組合と折衝を続け、問題改善に関する改善要項を示し協定を結んだ。しかし、折しも恐慌からの不況下のため、魚市場組合は大正15年、3年にわたる割戻金の支払いを完了すると経営難を理由に、現金取引の励行や割戻金廃止の方針を打ち出し魚商組合に迫った。そのため(一般魚屋のためになる)組合の機関問屋として(株)一印金沢魚問屋を設立。この新会社設立により魚市場組合は魚商組合の要求を入れ、相互契約を締結した。この時作られた会社は、魚商組合を漠とし、出荷者の信頼に重きを置き、主として魚市場改善のために努力する事を社是とし、営利を目的とせず、共存共栄を趣旨とした。同社はその後も存続し、戦時下の統制により、県鮮魚改廃旧会社に統一合併されるまであった。
こうして昭和2年には第一次近江町争議解決の妥協事項が正式に契約書として取り交わされたが、再三の申し入れの結果決裂したため、昭和7年10月には第二次近江町争議が始まった。双方の交渉は難航し、問屋側に不買同盟を宣して実戦に入る事に決めた。そのため、魚市場組合に入っていない(株)一印金沢鮮魚問屋と滝次商店鮮魚部から魚類を仕入れて市民には従来通り販売していく方針を固めた。そして12月1日、金沢市内で未曾有の魚問屋 対 魚商組合の廉売合戦が火蓋を切ったのである。魚商組合内でも割れに割れ問屋側に加担する組合員も居た。その乱売は盛りを極めた。両者の損失は初日だけで4,5千円は下るまいと言われ、金沢玉川署は2日間の警戒のため、年間機密費を全て使い果たしてしまったという。このため双方とも日に日に赤字が増え、4日目には両者の損害額が3万円となった。最終的には5万円もの大損害を出してけりを付けた。この争議には金沢市商工会議所、警察署、市内の料理店なども大きな痛手を受けたため、市長ら調停委員は双方の委員を市長室へ交互に呼んで調停和睦の促進に乗り出すこととなり、新聞紙上までもを賑わす社会現象となった。最終的には昭和7年12月24日に市長室で両者の調印が行われた。この騒動を通じて組合組織の強化と魚問屋側との対等な地位確保という尊い遺産を勝ち取った。その後、名古屋鉄道局長より鉄道運輸委員を委嘱。台湾青果北陸荷請組合設立。金沢商工会議所の移植により、上海、蘇州、杭州、南京を視察。昭和9年組合創立50周年記念に組合長在職28年の功労を表彰する顕彰碑を市姫神社境内に建立される。昭和13年3月3日胆石症のため死去(享年71歳) -
就任期間 12年
1938年~1950年
戸田 文次郎(とだ ぶんじろう)
明治19年9月に石川郡金石町に生まれる。子供の頃に親戚筋の戸田商店は養子に貰われたとだけは代々魚商業を営み、養父の名は文次郎と言った。長じて家業を継ぎ二代目文次郎となった。主として仲介業を営み、毎日上近江町の魚問屋から仕入れて料理屋や旅館向きにさばき、投句東京、鎌倉、大阪方面へも送り出していた。日露戦争後、現役兵として歩兵第七連隊に入営、除隊後まもなく結婚した。1男3女が生まれた。大正初期に30代から金沢市魚商組合役員となり、組合長に就任後は金沢商工会議所議員に選任され満州や朝鮮を視察。
昭和17年7月15日に金沢魚介小売商業組合に改称し組合長となる。その後、県商工経済界評議委員に選ばれ、戦後の21年12月には金沢商工会議所監事となり、23年12月まで在任した。しかし、昭和16年太平洋戦争が始まり、戦争激化と共に、企業整備が相次ぎ、配給統制が強化され、魚屋の店も次第にやりにくくなってきた。将来真っ直ぐで曲がったことが出来ない戸田氏はヤミで稼ぐということが大嫌いで戦争末期には自店の営業を閉じ、常勤組合長として組合の配給業務に専念した。組合は、昭和19年7月19日組合は金沢魚類小売統制組合に改称、続いて昭和22年4月18日金沢魚商業協同組合に改組する。終戦後の21年長男の文一が復員して再び魚商業を始めようとしたが、当時はヤミ市時代で、闇をやらない商売はないという時代のため、「ヤミをやるような商売はまかりならぬ。わしの顔に泥をぬる気か」と叱りつけ、文一は結局魚商業を諦め勤め人になった。戸田商店はこうして戦後自然廃業の形となり、昭和25年組合長辞任の時を迎えるに至った。戸田の思いは戦後の近江町がヤミ市からいち早く抜け、昭和21年に青草辻、近江町市場自治協会発足したことにも現れ、近江町市場の再建へ進む。理事長辞任後、昭和31年、2年の頃、転んだのがもとで足腰が不自由になり、昭和33年1月2日老衰のため死去(享年72歳)
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就任期間 3年
1950年~1953年
大森 玉木(おおもり たまき)
明治19年七尾市に生まれる。大正12年東京浅草で玉木座・帝京座を経営、浅草興工業組合理事。昭和4年七尾市議会議員に当選。土建業玉木組を創業。昭和7年民政党に入り県議会議員となる。昭和22年民主党兼幹事長として衆議院議員に初当選。以後国会議員に6回当選。昭和22年近江町で荷受問屋玉木水産を経営。戦前から地元の水産業界始め、各種業界や政界の顔利きとして通り、人情味ある親分肌の代議士として定評があった。魚商組合に対しては、「組合のために私が役立つなら」と理事長を引き受けた。
昭和25年金沢魚商業協同組合理事長に就任し3年勤め上げる。(組合は昭和27年に協同事業として製氷冷凍工場を建設した。その資金対策として、商工中金から一千万円程借り入れた。この建設に関して昭和23年頃から組合内部で論議され、組合理事長に大森代議士を担ぎ出したのはその辺りに真理があった。)昭和30年保守合同河野一郎はに所属。自民党両院議員総会副会長・北海道開発政務次官・石川県能登総合開発促進協議会副会長・改進党県連副会長を務める。昭和39年2月19日、東京で脳溢血のため倒れ肺炎を併発して死去(享年77歳)
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就任期間 3年
1953年~1956年
深山 豊次(みやま とよじ)
明治29年9月1日富山県に生まれる。大正7年魚商業深山嘉太郎家(川上新町)の養子となる。昭和17年より組合の理事を務め、戦時中は配給部長も兼務していた。その後、昭和22年に改称した金沢魚商業協同組合の理事を務め、専務理事、を経て理事長に就任。専務理事昇格氏、真っ先に冷凍工場の建設に取り組んだ。家庭にあっては、「この仕事が成功しなかったら腹を切らんならん」と妻子に言い聞かせていたという。組合は先ず、一千万円の融資を開業したばかりの商工中金金沢支所に渡りをつけた。
大森代議士の政治力で道は通じたが、借入条件は厳しかった。全役員の連帯保証はもとより、執行部役員は家屋敷を抵当に入れねばならなかった。一方組合員の出資は自由意志に任せ、小口、大口まちまちであった。組合では資金集めに困り、一時は工事の完成が危ぶまれた。しかし、地下水脈を掘り当て、危機を脱し昭和27年に竣工式に漕ぎつけた。その後、理事長時代にこの出資を1口5万円の平等出資が実現し、冷凍工場の経営基盤か固まった。そして稼働後は次第に黒字に転じ毎年固定資産の原価償却金を積み立てられるほどに上向いてきた。深山理事長は生来、率直にして決断力に富み、魚屋には似つかない進歩的な人柄であった。近所で一番早く電話を付け、ラジオを備えた。組合内でもトップを切って、オートバイを乗り回した。かと思うと香林坊の映画館「文化劇場」経営に参画したり、ブラスバンドに入ったりして、なかなか多趣味な人柄であった。時には尺八をやり、金魚を飼い、次から次へと趣味を追っかけていた。一方嘘をつくことが嫌いな質で負けん気が強く、よくけんかもした。しかし反面、彼のいるところ話題と笑いがつきないと言われたほどのユーモアたっぷりの人物でもあった。昭和29年4月には、石川県水産物小売団体連合会を設立し、初代会長となる。任半ばで脳溢血のため倒れ程なくして回復したが、無理の利かない身体となった。組合理事長を退任後は金沢水産信用組合理事長となりその経営に携わったが、2回目の発作に倒れ、昭和34年5月28日死去(享年64歳)深山家はその後2人の子息が父の遺志を継ぎ、長男豊太郎はニュー三久の専務取締役、次男健司氏は近江町市場振興組合常務理事として活躍した。
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就任期間 9年
1956年~1965年
麻田 六平(あさだ ろくへい)
明治38年4月17日小松市串町に生まれる。生家は元地主で父助太郎は潟漁業を営んでいた。六平は長男で、弟と二人、子供の時に母親と死別した。父はまもなく後妻を迎え、二人とも粟津の漆屋ヘ奉公に出された。しかし漆屋では将来が案じられ、兄弟手を取って金沢へ出た。六平18歳の時で、知り合いへ身を寄せ、相談の末、魚屋になろうと決心した。当初は兄弟で大八車に鮮魚類を積んで売り歩いた。時には天秤棒で三段重ねの笊を担いで売り回った。こうして20歳を迎えた六平は日露戦争の現役兵として入営し、後は弟が頑張った。除隊後、大正10年、兄弟は金沢市有松町で魚商業を営み始める。
彼の商売は月の15日を稼ぎ、後の15日は好きなことをする、というやり方であった。彼は子供の頃から山や川や潟が大好きであった。山へ長芋掘りに出かけたり、雀やつむぎ捕りをし、川でどじょうすくいをしたりするのが上手で、このように半月は獲物を捕りに飛び回り、これらを料理して売る、と言う商法であった。六平はなかなかのアイディアマンで、ドジョウ掬いの網や鳥落としの道具も自分で作った。また、捕獲したどじょうは蒲焼きにし、つむぎは串焼きにして店に並べた。趣味と実益を兼ねた店の名は「いずみ屋」と称し、辻名を「麻六」と名乗った。その後、日中戦争が始まると兄弟は揃って中支に応召、弟は不幸にして戦死した。六平は一旦復員したが、太平洋戦争が起きた翌17年に再び応召、富山の歩兵連隊に入った。召集解除後、白紙徴用で石川製作所の守衛を務めた。この時、六平は兼六会館で大勢の組合員を前にして、愛国の心情を訴える名演説をぶった。組合幹部の深山豊次理事が彼の雄弁に感銘し、「魚屋には珍しい男だ」と目を付けた。戦後、44歳になった六平は深山理事の推薦で金沢魚商業協同組合の理事に抜擢された。深山理事が理事長となるや副理事長として女房役をつとめた。また、戦後のスーパーマーケット時代を見越し、昭和35~36年に城南フードセンターを興し、その経営にあたった。理事長へ就任後、石川県水産物小売団体連合会会長・全水連第3回北信越ブロック協議会開業を兼任し、昭和36年には金沢市中央卸売市場建設協議会委員に就任し組合悲願の中央卸売市場の建設に関わる。在任中、在任後において様々な団体から表彰を受ける。(日本食品衛生協会表彰・中政連総裁表彰・石川県中小企業団体中央会表彰・全水商連会長表彰・石川県食品衛生功労者表彰昭ほか)
理事長就任前半は、組合員の平等出資を完了、次いで組合員の共済保険事業を確立した他、県内外の同業者と連帯協力の道を開き、我が組合の近代化と社会的地位向上に効果を上げた。またその後半においては、金沢市中央卸売市場建設計画に組合幹部と共に加わり中央市場対策に全力を傾注した。
昭和52年5月11日死去(享年74歳) -
就任期間 9年
1956年~1974年
今村 喜一(いまむら きいち)
大正1年12月14日金沢市に生まれる。昭和4年金沢市横伝馬町辻や鮮魚店勤務 昭和7年俳句を志し小松月尚師につく。昭和9年俳誌あらうみを有志と創刊、青魚と号す。その後、北支太平洋戦争に従軍し、戦後は今村鮮魚店を自営。昭和25年に金沢魚商業協同組合の監事を始め、県・市食品衛生協会理事、副会長を歴任。金沢魚商業協同組合の理事、専務理事、副理事長等、組合活動に邁進すると共に、昭和35年に(株)今村食水創立、金沢市中央卸売市場の建設協議会委員、金沢地方裁判所・金沢家庭裁判所調停委員等も担い、地域社会に貢献した。
納税、司法保護司、ライオンズクラブ会長、調停委員や銀行(金沢中央信用組合理事長)なども担い、俳人としては昭和53年に俳誌あらうみ会の代表になり、金沢の文化人として昭和58年には自伝『我が生涯』を刊行した。また、昭和55年4月最高裁長官表彰、昭和57年4月、藍綬褒賞受賞、昭和58年金沢税務署長より納税功労者表彰。昭和59年全国信用組合連合会理事に就任。平成6年11月5日に死去(享年82歳)
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就任期間 5.5年
1974年~1981年
北川 秀吉(きたがわ ひできち)
大正4年2月6日石川郡樫見村に生まれる。昭和13年金沢市百々女木(どどめき)町で魚商業自営。昭和23年食品衛生協会石川県支部理事・26年には金沢支部理事になる。昭和28年金沢市石引町で北川鮮魚(株)を設立。この年より魚商組合理事になり、昭和34年石川県調理師会理事、34年に魚商組合 専務理事。昭和38年金沢市中央卸売市場建設協議会委員。昭和40年石川県連副会長、魚商組合副理事長、を経て昭和49年に魚商組合理事長に。
日本食品衛生協会功労者として厚生大臣表彰を受け、昭和50年には世界連邦平和会議石川県支部役員として第1回地球市民世界大会に出席。食品衛生や水産関係の表彰を受け活躍。昭和53年には金沢おさかな普及協会設立。同副会長選任。理事長時代にはせり時間の繰り下げの運動を行った。昭和46年からセリ開始午前3時30分~となっているが、これは組合員の労働時間が長時間に及び、健康管理上労働者圧迫となることから、経営上も死活問題である、として解決策を要望した。しかしこの問題は組合員の中でも意見が二分し、小康状態を保ったままとなった。昭和56年に理事長辞任後顧問に就任。平成10年秋には瑞五褒章受賞。平成15年8月15日死去(享年88歳)
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就任期間 5.5年
1981年~1987年
松任 三郎(まっとう さぶろう)
明治41年10月10日生まれ。大実業家を夢見て東京で勉学に励むが関東大震災に遭い帰郷。魚屋となる。昭和25年金沢魚商業協同組合理事。金沢中央信用組合(銀行)監事を務め、昭和41年、第二連区の仲間と共に鮮魚と青果を扱うスーパーマーケット形式の(株)中央生鮮食品を設立、代表取締役社長に就任。その後は、銀行と組合、市場の理事を経て、昭和56年、金沢魚商業協同組合理事長に就任。時にオイルショック後の景気低迷期であり、魚離れを危惧した我々水産業界は食生活改善キャンペーンや販売キャンペーンなどを精力的に行う。
また、昭和58年に市場関連棟の新築に合わせて魚商会館の建替えを行った。そして、組合百周年事業の準備を行い長引く不況突破への覚悟を新たにした。昭和60年組合100周年記念式典を文化ホールで挙行した。壮健であったが病をえて昭和62年4月27日死去(享年79歳)
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就任期間 8年
1987年~1995年
辻 吉治(つじ きちじ)
昭和3年10月22日金沢市伝馬町に、 辻屋商店の長男として生まれる。(旧制)第四高等学校に入学したが、父死去により退学し、家業を継ぐ。「金沢で魚屋修行をするならば辻屋で」という定評があるほど、業界内で一目置かれる大店であった。市場ジョッキー(北陸放送)昭和51年頃から10年くらいラジオ放送で鮮魚部門を担当していた。家業は、辻屋商店を営業しながら、「本店吉兵衛寿司」を昭和54年~昭和59年頃まで営業。「伝馬寿司」「割烹つじや」を昭和50年~平成元年頃まで営業。
昭和62年4月20日より金沢魚商業協同組合 理事長就任。昭和49年頃には金沢中央信用組合の理事なども兼任する。土地の名士であるが数ある受賞を固辞された。平成27年8月18日死去(享年87歳)
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就任期間 4年
1995年~1999年
忠村 喜吉(ただむら きよし)
大正13年8月27日生まれ。父 喜作が大正13年4月に近江町市場八与商店の片隅を借りて小さな鮮魚店を開いた。そのため、小学校5.6年生の頃から店の手伝いを始めた。戦時中、若い店主や従業員が続々と徴用もしくは応召で店を去り、自身も金沢航空㈱に就職し、飛行機の部品作りをした。その後、海軍に志願し舞鶴海兵団の航空整備兵になり、しばらくして名古屋航空隊へ配属され、訓練を受けている間に終戦を迎え、復員した。
戦後の混乱期に商売を立て直そうとした過労がもとで昭和24年、脊椎カリエスを患い寝たきりになった。長患いの末、昭和33年大手術を受け、 昭和34年に全快した。その後は、金沢市中央卸売市場開場にともない、魚商組合とわかれ水産物仲卸業者として入場した。近江町市場組合青年部時代からの親友、大橋昌寛と組んで高忠水産を開業したが、またもや過労により発病、仲卸業を諦め、静養の後、実家の忠村商店に戻った。金沢魚商業協同組合では 昭和49年~専務理事に就任後、20年近く執行部に関わられ、北川理事長、松任理事長、辻理事長の3代を支えられた。理事長に就任された平成7年、春の叙勲にて旭日単光章を賜る。近江町市場の近代化と魚商組合の組織の強化と人材づくり、若い世代に自己啓発の機会を与えることに尽力した。家庭では良き父であり、子息と共にプロ野球や高校相撲などの観戦に出かけ、カラオケとスポーツ観戦を趣味とした。お酒(特に日本酒)が好きだったという。平成15年12月25日死去(享年79歳)
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就任期間 8年
1999年~2007年
林 貞夫(はやし さだお)
昭和8年11月11日、樺太生まれ。終戦の日に母の故郷の金沢へ引き上げてきた。中学卒業後まもなく、近江町の魚問屋(加能水産)へ修行に出て、昭和27年から藩政期から続く鮮魚店、松任の「上林屋」に勤めが変わり、昭和31年、23歳の時に林家に養子入りした。昭和50年6月~同 代表取締役社長。旧松任市中心部に賑わいを取り戻そうと知恵を絞り、1992年に松任朝市を開設した。大型店に出来ない事を地元の小売店はしていかなくてはならない、と魚離れが進む子供達への魚食普及にも力を入れた。
地域を代表する商店として、地域住民、学校、病院などへの食材提供を通じて、地域貢献を図る。昭和40年代には茅葺きの昔風の魚屋から会社組織として鉄筋に改造し総合食品店として再出発した。町内会運営においても積極的に運営協力を行い、松任ロータリークラブ会長として、地域経済界のリーダーとしてボランティア活動も多く行った。平成19年春の叙勲にて、旭日双光章を賜る。金沢魚商業協同組合の理事長を終えた後、令和7年3月に組合を退会するまで相談役を担った。理事長就任時には、全国水産物商業協同組合連合会副会長など業界の要職も務めた。
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就任期間 4年
2007年~2011年
大浦 政昭(おおうら まさあき)
昭和14年1月20日富山県小矢部市に生まれ。昭和17年に金沢市高道町に引越す。昭和20年金沢市森山小学校入学、昭和27年野々市中学へ入学。昭和30年、野々市市「酒庄」にて魚屋修行(丁稚)開始。昭和34年金沢市米丸町にて開業。昭和57年12月金沢市玉鉾町に「割烹大浦」開業。併設の「大浦鮮魚店」は20年程営業を行った。昭和55年より、MROラジオ「市場ジョッキー」出演。昭和57年 NHK「旬新便」に出演。旬の魚の情報を市民にお届けした。
昭和58年石川県調理市会副会長、石川県食品衛生協会副会長を担う。それらの功績が認められ、平成28年11月 旭日双光章を賜る。金沢魚商業協同組合では昭和61年理事就任、昭和65年常務理事就任、平成7年専務理事就任、平成9年副理事長(10年間)、平成19年理事長就任、平成23年~現在、 相談役を担う。
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就任期間 16年
2011年~2027年
平村 敏一(ひらむら としかず)
昭和26年4月25日生まれ。金沢魚商業協同組合 では昭和61年理事就任、平成元年常任理事就任、平成8年常務理事就任、平成19年副理事長就任、平成23年より理事長就任、現在に至る。石川県水産物商業協同組合連合会 会長、全国水産物商業協同組合連合会 副会長、金沢中央信用組合 監事平成19年~、理事平成26年~。金沢おさかな普及協会では「お魚捌き方教室」講師として長年活躍。同、会長を4年(2期)、副会長を12年努める。
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